廃藩置県
明治維新の中で最も重要なのは廃藩置県だそうだ。
これがなければ、1872(明治5)年の徴兵令と学制、1873(明治6)年の地租改正。そして1872(明治5)年に新橋~横浜間から施設が始まった鉄道建設は実現しなかったという。
へぇー。そこまでとは知らなかった。
1867(慶応3)年11月9日に幕府から朝廷に統治権(大政)を返上した大政奉還。
1868(慶応4/明治元)年に成立した明治政府と天下二分の戊辰戦争(「天下二分」はふつーは関ヶ原よね)。
政府は明治政府樹立後、府・県・藩の三治制により中央集権国家を目指す。が、各藩の政治は依然各々が行っていたため、より中央集権を確実なものとするために版籍奉還を木戸孝允(長州藩出)が提案。薩摩・長州・土佐・佐賀の4藩を皮切りに1869(明治2)年6月17日、諸藩から朝廷への領地返還である版籍奉還が勅許。各藩が版籍奉還に応じた背景には戊辰戦争以後、藩主の権力が弱くなっていたことがある。
ちなみに「版」とは「版図」のことで領地を指し、「籍」は「戸籍」のことで人民を指す。これらを朝廷=天皇に返還したわけだから、646(大化元)年の公地公民と作用は一緒だ。
版籍奉還後、政府は中央集権を進めるにあたって各藩に知藩事を置こうと考えるが、藩主の権力まで奪われることを非常に恐れた島津久光(薩摩藩)の反発を受けなかなか実現されなかった。
政府が廃藩を推し進められなかった背景には戊辰戦争で薩摩藩の多大な貢献があったことがあり、また新政府の要人大久保利通(薩摩藩出)に藩主の圧力があったためでもある。
藩主が実権を握る以上、財政や軍事の権利は藩にあり、政府の歳入は国全体の3割程度。政府の維持も危ぶまれた。それゆえ政府内では廃藩立県(井上馨大蔵相)の声が高まる。
また、諸藩では戊辰戦争での借金に追われ財政厳しく、藩の側よりその維持よりも廃藩の動きが出てきた。池田慶徳(鳥取藩/徳川慶喜の兄)・徳川慶勝(尾張藩)・蜂須賀茂韶(徳島藩)・細川護久(熊本)からは廃藩論が政府に献言される。特に熊本藩の細川護久は「知藩事辞職を願い、代わりに賢才を抜擢すべし」と云ったらしい。えらい。細川氏を見直した。…畏れ多いコメントでゴメンナサイ。
が、しかし、長州・薩摩の抵抗が強まったため、未だ政府はこのような必要性、また諸藩の援護があったにも関わらず廃藩を実施できなかった。
政府が断行できずにいる中、諸藩では藩の代表者が会合を開くなどして廃藩への動きが活発となってくる。それを大納言 岩倉具視が支援し、これによってそれまで動かなかった西郷隆盛(薩摩藩出)も政府側へ参加した。この西郷隆盛の参加は政府が廃藩への道を切り開く大きな力となった。
最終的に、木戸孝允や大久保利通、西郷隆盛を含めた7名の長州・薩摩出身者達が会議を開き、そこで廃藩への筋道が話し合われる。廃藩を断行することによって薩摩藩の蜂起も心配されたが、西郷隆盛はこれを全力で阻止することを約束することで廃藩断行が決定される。
かくして、1871(明治4)年7月14日14時。当時江戸にいた50余名の大名が江戸城に呼び集められ、天皇からの詔の形で廃藩置県が伝えられた。
一種クーデターの様な政策であったが、それに反発する大名はおらず、心配された薩摩藩の動向も蜂起には至らなかった。
とまぁ、こんな感じらしい。
この廃藩置県によって(最初にも挙げたが)政府主導による徴兵令や学制、地租改正といった様々な政策が行われ、日本が近代国家への道を歩むことになるのだそうな。
歴史の中で四文字で済んでしまうことにこんな深い話があるのだから、ホントに歴史は面白い。
ただ、個人的には明治~昭和初期(第二次世界大戦終戦)までの日本はどうにも気に入らない。気に入らないというか「狂ってる」と云うようにしている。
戊辰戦争や廃藩置県であんなにも国を思っていた人々はどこかに消えてしまったかのように日本が動いていくことになるのだ。いや、ある意味国を思えばこそなのかしら。

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